イベント

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  • Parasophia Conversations 01
  • アレクサンダー・ザルテン×北野圭介
  • 2014.11.16
  • 日曜日
  • 15:00–17:00
  • 場所:京都芸術センター ミーティングルーム2

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  • Parasophia Conversations 01
  • アレクサンダー・ザルテン×北野圭介
  • 2014.11.16
  • 日曜日
  • 15:00–17:00
  • 場所:京都芸術センター ミーティングルーム2

「21世紀のイメージ・トラフィックを考える」

     イメージをめぐる現状について議論するため、この催しは、動画や画像をもとにした対話型のプログラムとして企画されました。
     この企画のために用意されたTumblrの特設サイト(paracon01.tumblr.com)には、当日までに100点以上ものイメージが投稿されていました。マシュー・アーノルドやピナ・バウシュによる芸術作品をはじめとして、映画『カメラを持った男』を模した「デジカメをもった男」、ネット上を賑わせている映像と音声のナンセンスな組み合わせ、はてはカラオケで詠う友人を撮影しただけのホームビデオまがいの映像まで、スクリーン上には多種多彩なイメージが上映されました。
     企画者の北野圭介氏とアレクサンダー・ザルテン氏は、そのいくつかを紹介することからこの企画をはじめます。高級・大衆文化を問わずして、これらの動画像が積み重ねられ、ひとつの大きな画面のなかに塊となって表示されるという事態は、あたかも前世紀初頭のアヴァンギャルド美学がユートピアとして目指したイメージのモンタージュのようでもあり、とはいえ、見方をかえればそれが、ディストピアのような雑多さをもって実現したかのようでもあります。
     このような感想に続く対話は、おなじく投稿されたイメージから出発すると同時に、特別ゲストのパシ・ヴァリアホ氏の報告と聴衆からの応答が徐々に重なりあうことによって、最終的には言葉とイメージとがお膳立てされていないかたちで出会い、拮抗するようなかたちをとることになりました。

     北野氏の報告は、この特設サイトにも掲げられた「サーキュレーション」や「キュレーション」といった言葉の解説を中心に進められます。イメージの「サーキュレーション=流通」といえば、インターネットに代表されるように、驚くべき数の動画像がグローバルな規模において水平軸に無限に広がるような印象を与えます。その一方で「キュレーション」とは、一般的には美術館などにおける展示や運営を意味する言葉であり、現在では英語圏を中心に、日常生活でも頻繁に利用されるようになりつつあるといいます。さらに言えば、後者の言葉はそもそも、神の預言を伝えることによってわたしたちを導くという、宗教的かつ垂直的な意味合いをもちあわせてもいました。このようなふたつの観点からイメージをめぐる現状を切り分け、それが交差するダイナミックな様子を「トラフィック=交通」として捉えなおすこと、そこで変容しつつあるイメージとメディアの機能を明らかにすることが、この企画の狙いとされます。
     これを受けるかたちでヴァリアホ氏は、従来のイメージ論において重視されていた「再現=表象representation」という観点が限界を迎えつつあるという、論争含みな提言から報告をはじめました。この言葉に代わるかたちで提案されたのは、イメージそのものを「生きている有機体」として理解するような態度です。このような動向は、H・ブレーデカンプ、W.J.T.ミッチェル、H・ベルティングらによる最近のイメージ論によって進められている一方で、具体例としては、戦争ゲームのプレイヤーがネット上に投稿した実況動画が挙げられます。細部まで高画質で再現された戦場の危機的な状況をくぐり抜けるにつれて、ワイプ画面のなかのプレイヤーは大声を上げ、前身を痙攣させるような反応をみせることになります。このような情動的な反応は、生死をめぐるカタストロフィのうちに一人称の視点を設定すること(FPS)によってますます高められ、イメージのなかに身体を馴染ませるようにして自発的に展開する様子をみせるものです。
     最後にザルテン氏の報告は、水江未来によるアニメーション《JAM》(2009)の上映から始まりました。「細胞アニメーション」とも呼ばれるこの作品は、リズミカルな音楽とともに、有機的な形象が反復や増殖をミニマルなかたちで繰り返し、それらが同期するとともに微細なズレが生じることにもなります。この作品を事例としてザルテン氏が示してみせたのは、「フロー」という観点の可能性です。Z・バウマンやM・チクセントミハイらの研究を参照すると同時に、この言葉がもつ「流体」としてのニュアンスを強調することによって、イメージのフローはコンテンツ・コントロール・リズムといった三つの観点から検討されます。このようにして、単にイメージが意味するところのみならず、そのサーキュレーションがどのように制御されるのか、またはそのリズムがどのような身体的な反応を引き起こすのか、といった議論が展開されることになりました。

     これらの報告の合間から聴衆はすでに質問や感想を提出するようになり、最後にはみずからが投稿した映像を紹介するようになりました。そこで提出されたのは、ここまでに上映されたイメージが歴史的な観点からみてどのように整理することができるのか、その同期やズレがわたしたちの身体にどのように反応を生み出しているのか、さらにはそのトラフィックにおいてどういった「(ディス)コミュニケーション」が引き起こされるのか、といった問題です。
     とりわけ、最後の問いに応えるため、ヴァリアホ氏は、送信者と受信者のあいだにメッセージを想定していた従来の図式から、スクリーンをはじめとするメディアからイメージが出発し、それが集合的な身体に働きかけるという、新たなモデルへの転換を提示します。このようなモデルにおいて必要とされるのが、ここまでにみてきたコントロールやフローといった観点にほかなりません。それらは、写真や映画といった従来のメディア・フォーマットが溶解し、その意味内容やオリジナルとコピーの対立といった観点からでは捉えがたい現在のイメージをめぐる状況を語るためにも重要な観点となるようにも思われます。さらに付け加えるなら、この新しいモデルは、投稿されたイメージから出発するかたちで対話型のプログラムを展開していくという、本企画のありかたによって体現されていたようにも感じられました。

【文・増田展大(映像メディア論)】


Parasophia Chronicle刊行予定:www.parasophia.jp/publications/#parasophia_chronicle


Parasophia Conversations 01 アレクサンダー・ザルテン×北野圭介「21世紀のイメージ・トラフィックを考える」
日時:2014年11月16日(日)15:00–17:00
会場:京都芸術センター ミーティングルーム2
コーディネーター兼モデレーター:アレクサンダー・ザルテン(ハーバード大学)、北野圭介(立命館大学、PARASOPHIAプロフェッショナルアドバイザリーボード
特別ゲスト:パシ・ヴァリアホ(ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ)
主催:京都国際現代芸術祭組織委員会、一般社団法人京都経済同友会、京都府、京都市
共催:京都芸術センター


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Parasophia Conversationsとは
様々な人が、結論を求める討論や対話ではなく、あるテーマについてリラックスした空気の中で会話する、オープンリサーチプログラムの発展形のシリーズです。

アレクサンダー・ザルテン×北野圭介●アレクサンダー・ザルテン(Alexander Zahlten)ハーバード大学東アジア言語・文明学部准教授。1973年生まれ。ヨハネス・グーテンベルグ大学マインツ(ドイツ)映画学博士課程修了。2003年から2005年まで日本大学で論文研究を行い、2009年から2011年まで明治学院大学言語文化研究所特別研究員。トングク大学(韓国)映画デジタルメディア学科准教授(2011–12)を経て、現職。フランクフルトで開催されている世界最大の日本映画祭「ニッポン・コネクション」の立ち上げに関わり、2002年から2010年までプログラムディレクターを務める。1960年代以降の東アジア、特に日本の映画や視覚文化について、歴史的・政治性のさまざまな観点から考察している。ピンク映画や角川映画、Vシネマのような大衆映画における普及システムの変遷などをテーマに論文を執筆。近年では、日本映画の韓国版リメイクから見られるポストコロニアル理論やメディアミックスにおけるカテゴライズなどをテーマとする著書がある。2014年11月9日には表象文化論学会第9回研究発表集会の関連企画として新潟市マンガの家との共催で開催されるトークイベント「海外で日本の『アニメ』はどう見られているのか?」にキム・ジュニアン(新潟大学)と共に出演する。[その後「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」参加作家に決定。詳細:アレクサンダー・ザルテン]●北野圭介(きたの けいすけ)立命館大学映像学部教授、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015プロフェッショナルアドバイザリーボードメンバー。1963年生まれ。ニューヨーク大学大学院映画研究科博士課程中途退学。ニューヨーク大学教員、新潟大学人文学部助教授を経て、現職。2012年9月から2013年3月までロンドン大学ゴールドスミスカレッジ客員研究員。映画をはじめとした映像メディアの可能性と限界について、テクノロジー、産業、既存の表現文化などあらゆる分野を横断しながら理論を展開している。主な著書に、『ハリウッド100年史講義 夢の工場から夢の王国へ』(平凡社新書、2001)、『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』(平凡社新書、2005)、『大人のための「ローマの休日」講義:オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書、2007)、『映像論序説〈デジタル/アナログ〉を越えて』(人文書院、2009)、『制御と社会 欲望と権力のテクノロジー』(人文書院、2014)など。『思想』(岩波書店、2014年第5号)にリピット水田堯『原子の光(影の光学)』の書評「観ることの倫理性」を寄稿。2014年11月8日には表象文化論学会第9回研究発表集会の企画パネルとしてPARASOPHIAとの共催で開催される「アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだI」にパネリストとして参加し「イメージのマテリアリティとサーキュレーション――セクーラを起点として」という演題で発表予定。また翌日は同会の関連企画として同じくPARASOPHIAとの共催で開催されるトークセッション「アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだ II」の司会を務める。詳細:表象文化論学会 第9回研究発表集会 企画パネル1「アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだ I」[その後「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」参加作家に決定。詳細:セクーラを読む人

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